幕末の激動する歴史を年表で読む −海から来る 近代化のうねり− 江 戸 後 期 年 表 (異国船の来航、幕府の軍事対策、井伊直弼の政策と水戸藩の流れを中心として) |
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国内の動きを中心にして | 主な外国の動きを中心にして | |
水戸藩の長久保赤水が、緯度を記入した精密な→→ な日本地図を完成(出版は1778年) |
1755年 | |
1778年 | 6月ロシア船、蝦夷地の厚岸(あっけし)に来航、松前藩 に通商を要求 |
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6月田沼意次没→→→→→→→→→→→→→→→→ 幕府、海防強化を諸大名に命じる。松平定信、蝦 夷地防備策をたてる |
1788年 | |
1792年 | 9月ロシアのラックスマン根室に来航通商を要求 |
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1796年 | 8月英国人ブロートン室蘭に来航。日本沿岸を測量 |
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1797年 | 11月ロシア人択捉島(えとろふ)に上陸 |
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立原翠軒門人の木村謙次、幕府の近藤重蔵を→→→ 案内し択捉島に渡り「大日本恵登呂府(えとろ ふ)」の木標を立て帰る。 |
1798年 | |
会沢正志斎の「千島異聞」成る。→→→→→→→→ | 1801年 | |
立原翠軒が彰考館総裁を辞任。「史館動揺」→→→ |
1803年 | 7月米国船、長崎に来航、貿易を要求 |
1804年 | 9月ロシア使節レザノフ長崎に来航。通商を要求 |
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1806年 | 9月ロシア船、樺太の松前藩会所を襲撃 |
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1807年 | 4月ロシア船、択捉島に来航 5月ロシア人、利尻島に侵入して幕府の船を焼く |
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間宮林蔵、樺太に渡り樺太が島であることを確認→ |
1808年 | 8月英国軍艦フェートン号が、敵国オランダ船捕獲のため 長崎湾に侵入。薪水・食糧を強要した事件発生 |
1811年 | 6月ロシア船艦長のゴローニンら8名が国後島で捕えられ、 箱館に監禁。翌年ロシアに捕えられた商人高田屋嘉兵衛 との交換釈放となる |
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彦根35万石の井伊直中の14男井伊直弼生れる→→→ |
1815年 | |
1816年 | 10月英国船2隻、那覇に来航。 |
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1817年 | 9月英国船浦賀に来航 |
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1818年 | 5月英国人、ゴルドン浦賀に来航 |
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勝 海舟生れる。(幼名鱗太郎)→→→→→→→→ |
1823年 | 水戸藩領海岸沖に英国捕鯨船が滞留 |
水戸藩、英国捕鯨船と交易の漁民300人を捕える→ |
1824年 | 5月大津浜事件 常陸大津浜に英国捕鯨船船員が上陸、薪水・食糧を要求する 8月英国捕鯨船が薩摩沖の宝島の番所を攻撃 |
2月異国船打払令(無二念打払令)出る→→→→→ 3月会沢正志斎「新論」著す (水戸学の代表的国家論) |
1825年 | |
1827年 | 英国人、小笠原を占領 |
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10月徳川斉昭、水戸九代藩主となる→→→→→→ |
1829年 | |
徳川斉昭「告志篇」を著す→→→→→→→→→→→→ 大坂、小浜、広島など全国各地で米価騰貴、米買 占めに対し騒動打ちこわしが起こる |
1833年 | 8月英東インド会社が商業活動を停止し、植民地支配機関 となる |
5月徳川斉昭、海防強化のため助川城を築く→→→ |
1836年 | |
2月大塩平八郎の乱起こる→→→→→→→→→→→ |
1837年 | 6月モリソン号事件 米国船モリソン号が日本人漂流民返還と通商を求めて来航 したが、相模の浦賀と薩摩の山川で撃退される 英国艦ロウレー号、小笠原に来航 |
3月「弘道館記」(弘道館設立の趣意書)できる→→ |
1838年 | |
1840年 | アヘン戦争起こる(清が英国からのアヘン輸入を禁止した ことで起こる)→(清が大敗し南京条約が締結され、英国に 香港を割譲することになる) |
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8月弘道館(水戸)仮開館→→→→→→→→→→→ |
1841年 | |
天保の薪水給与令(異国船打払令の緩和)→→→→ 偕楽園の開園 井伊直弼、長野主膳に師事、国学を学ぶ |
1842年 | |
四谷角筈に大砲射撃場完成する→→→→→→→→→ |
1843年 | 10月英軍艦、琉球八重山諸島を測量する |
5月甲辰の国難→→→→→→→→→→→→→→→→ (斉昭らが隠居謹慎・免職蟄居を言い渡される) |
1844年 | 3月仏軍艦アルメーヌ号、那覇に来航 7月オランダ国王が将軍に開国を勧告 |
勝 海舟、永井青崖の門に入り蘭学を学ぶ→→→→ |
1845年 | 3月米国捕鯨船、漂流民を護送し浦賀に来航 |
8月天皇、幕府に勅して海防を厳重にさせる→→→ 10月幕府、所司代を通して外国船来航状況を朝 廷に伝える 12月水戸藩士、藤田東湖らの蟄居を赦す |
1846年 | 4月英国船、仏軍艦、那覇に来航 5月米国東インド艦隊ビッドルが通商を求めて来航、幕府は 拒否 |
1849年 | 3月米国艦プレブル号長崎来航し漂流民を受けて退去する 4月英国艦マリーナ号、江戸湾を測量し下田に入港 |
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井伊直弼、彦根藩十三代藩主に就任→→→→→→→ 12月幕府、相模観音崎砲台を改築する |
1850年 | |
中浜万次郎(ジョン万次郎)ら米国から帰る→→→ |
1851年 | |
1852年 | 6月「オランダ別段風説書」米国艦来航を予告 |
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井伊直弼、溜間詰大名を代表し開国論を主張→→→ 6月ペリー来航の20日後、十二代将軍家慶が卒す 7月斉昭 海防参与に任じられる 9月大船建造の禁を解く 11月浦賀に造船所を建設 |
1853年 | 6月3日米国東インド艦隊司令長官ペリーが米国大統領の 親書を携えて浦賀に来航 7月ロシア極東司令長官プチャーチンが通商を求めて長崎 へ来航 |
井伊直弼、攘夷論を唱える徳川斉昭と対立する。→ その後、京都守護に命じられる。 この年から洋式銃の大量輸入始まる。 11月4日安政の大地震起き、東海道の交通途絶 湯島に大小砲製作所を設置 |
1854年 | 1月ペリー再来航。3月日米和親条約調印。 8月日英和親条約調印 9月幕府オランダに下田、箱館を開港 12月日露和親条約を締結(下田、箱館、長崎を開港。 エトロフ、ウルップ島間を国境とし、樺太を両国の雑居地 と定める) |
7月江戸九段坂下に洋学所を創設→→→→→→→→ 長崎に海軍伝習所を設置 (勝海舟その生徒監となる) 1855年10月2日、藤田東湖、戸田忠敞(タダアキラ) (水戸の両田)安政の大地震(二度目)で圧死 |
1855年 | |
4月築地に講武所を開設。→→→→→→→→→→→ 洋式砲術の習得を奨励する |
1856年 | 7月ハリス米国初代駐日総領事として下田に着任 |
4月幕府、軍艦教授所を築地講武所内に設置→→→ 5月長崎に幕府直轄の製鉄所、造船所、海軍工厰 を建設 5月弘道館(水戸)本開館する 6月17日元老中首座の阿部正弘、急逝する →7月徳川斉昭、海防参与を辞任す |
1857年 | 8月日蘭追加条約を長崎で調印(事実上の初の通商条約) |
1858年4月23日井伊直弼、大老に就任。→→ 6月19日朝廷の勅許を得られぬまま、日米修好 通商条約を調印。6月24日徳川斉昭、徳川慶恕 (よしくみ)らが不時登城。6月25日慶福の将軍 継嗣公表、不時登城の御三家を処分。8月8日戊 午(ぼご)の密勅、水戸藩に下る。9月18日井 伊直弼、安政の大獄に踏み切り反対派を徹底 弾圧、斉昭は国許永蟄居、慶喜は隠居。 |
1858年 | 6月ハリス。日米修好通商条約調印 7月蘭、露、英と通商修好条約調印 9月仏と通商修好条約調印 |
安政の大獄の処分執行、死罪八名→→→→→→→→ |
1859年 | 5月英使節オールコック着任 6月幕府、横浜、長崎、箱館を開港 |
1月勝海舟ら咸臨丸で太平洋横断→→→→→→→→ 3月3日桜田門外の変で井伊直弼死去 8月徳川斉昭死去 |
1860年 | 12月米国公使館通訳官ヒュースケン殺害される |
12月竹内保徳らの遺欧使節出発→→→→→→→→ |
1861年 | |
7月6日慶喜、第十四代将軍家茂(いえもち)→→ の後見職となる。(このとき会沢正志斎、時務策 (じむさく)を著し慶喜に献上する) 8月19日竹内保徳ら開市開港を延期、樺太分界 (北緯50度)等を露国と調印 8月21日生麦事件、島津久光護衛の薩摩藩士が 英国人を斬る 9月幕府派遣蘭国留学生榎本武揚、津田真道、西 周らが、長崎を出発 11月幕議、攘夷の勅旨に従うことを決定 12月歩兵、騎兵、砲兵から成る 「幕府三兵隊」を組織 12月高杉晋作ら品川の英国公使館を焼く |
1862年 | |
4月幕府、5月10日を攘夷決行日とする→→→→ 5月9日幕府、生麦事件などの賠償金11万ポンド (44万ドル)を英国に交付 5月10日長州藩、下関で外国船に砲撃 (米商船、仏艦、蘭艦) 7月生麦事件の報復のため、英艦隊が鹿児島を 攻撃(薩英戦争)→11月1薩摩藩、英公使に 10万ドルを交付して生麦事件解決 伊藤博文、井上肇ら脱藩して英国留学に出航 |
1863年 | 12月スイスと修好通商条約結ぶ |
1864年6月5新撰組、池田屋を襲撃→→→→→ (これを機に長州藩は攘夷強硬論に転じる) 7月19禁門の変(尊讓派長州藩と、公武合体派 の会津、薩摩両藩を中心とする軍の衝突) 7月21日長州追討令がでて第一次長州戦争となる |
1864年 | 3月仏大使ロッシュ着任 8月四国連合艦隊、下関を砲撃 |
3月薩摩藩の寺島宗則ら19人英国留学へ出発→→→ 5月12日第2次長州戦争始まる |
1865年 | 5月英大使パークス着任 9月四国公使条約勅許を要求、 10月勅許下る(兵庫港は除外) |
5月石川島で軍艦「千代田形」建造→→→→→→→ 8月4日勘定奉行小栗忠順、仏国クーレーと600 万ドル借款契約結ぶ 10月幕府陸軍方が譜代大名の軍役を 洋式編成に切り替える上申案を作成 12月5徳川慶喜、第十五代将軍となる 孝明天皇崩御(1866年12月25日) |
1866年 | 5月英米仏蘭と改税約書調印 7月伊国と修好通商条約結ぶ |
1月シャノアンヌ大尉を団長とする仏軍軍事顧→→ 問団が到着、横浜の太田陣屋で伝習開始する 5月兵庫開港勅許下る 日仏による600万両の借款条約破談となる(英 国の妨害によるが、これが幸いして仏の北海道 の経済的植民地化をのがれる) 討幕の密勅(1867年10月13日、14日)薩 摩藩と長州藩の藩主父子にあて下された。慶喜討 伐命と同時に会津、桑名の両藩主の討伐も命じら れた。 (勅諚としては書式が整わず、長く公表されなか ったため、現在では 薩長両藩の決意を固めるた めの作為した偽勅と解されている) |
1867年 | 3月カナダ連邦誕生 アメリカがロシアよりアラスカ領を購入する |
大政奉還1867年10月14日 王政復古を宣言 12月9日 翌年1月鳥羽・伏見の戦い起こる |
<参考> ◆クリミア戦争(1853〜56)−−−−−−−−−−−−− ロシアがオスマン帝国と開戦。ロシアの南下阻止のため 英国が、大国の権威を取りもどすため仏国が参戦、大規模 な戦争となる。ロシアが敗れ1856年パリで講話となるが、 参戦したサルディニア国はイタリア統一の足掛りをつくる ◆南北戦争(1861〜65)−−−−−−−−−−−−−−− 1860年末の大統領選挙でリンカーンが当選すると翌年南 北戦争が勃発。以後4年にわたる内乱となる。このため米 国は日本進出に関して英仏に後れをとることとなった。 ◆スエズ運河の開通(1869)−−−−−−−−−−−−− 全長160kmの大運河。仏のレセップスが設立した国際 スエズ運河会社により1859年着工、69年に完成した。これ により欧州とアジア間ルートは1/3の距離となり、列強の アジア進出が加速されることとなる。1875年に英国が運河 買収してからは、英国のアジア植民地戦略最重要拠点とな る。1877年には最大の植民地インドが、英国の支配のもと インド帝国となる。 ◆ドイツ皇帝の載冠(1871)−−−−−−−−−−−−− ウイーンやベルリンで1848年に起った諸革命は旧制度を 維持しようとする力と、国民国家への転換を求める近代化 への動きとの分水領であった。こうした流れの中1871年ビ スマルクによりドイツ帝国の樹立となる。 |
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