<水戸黄門像>

  

  

  

徳川光圀(水戸黄門)1628〜1700

 光圀は、寛永5年6月10日水戸藩初代藩
主、徳川頼房の三男として生まれ、幼名長
丸、千代松、光国(圀の字は56才から)と
なり、太田の西山荘で没後義公(ぎこう)と
諡(おくりな)されました。
 光圀は、司馬遷の「伯夷伝(はくいでん)」
を読み、はっとして「本朝の史記」(のちの
大日本史)を作ろうと思い立ちました。光圀
が30才の時、「彰往考来」(往事(おうじ)
を明らかにして(将)来を考える)の中から
2文字をとり彰考館という歴史編さん所を作
りました。そして著名な学者を多数招き、歴
史編さん事業に入ったのです。
 その志のため、多くの学者がその後参加し
ました。そして次々と形ある史書として編さ
んを重ね、かねて光圀が抱いていた皇国史観
は死後も代々受け継がれ、250年の歳月を
かけ397巻の「大日本史」が完成しました。
それはなんと明治39年のことでした。
 光圀が亡くなった時、庶民はこう詠いまし
た。「天(あま)が下(した)、二つの宝は朽
(くち)はてぬ、佐渡の金山、水戸の黄門」。

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