−光圀(義公)の残したもの− 徳川光圀(水戸黄門)1628〜1700 弘道館わきの三ノ丸小学校校歌 −弘道館− −水戸学と尊攘思想−
−弘道館記に記されるもの(要約)− −斉昭の書簡− −偕楽園− −偕楽園(好文亭)と千波公園− −偕楽園と好文亭−
−偕楽園散策と好文亭− −好文亭− −偕楽園の散策− ―水戸芸術館― −歴史ロードより薬医門へ−

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−光圀(義公)の残したもの−
 光圀が修史のために創設した彰考館は、「大日本史」の他にも多くの成果をあげています。「神道集成」「扶桑拾葉集」「釈万葉集」「礼儀類典」などです。
 有名な「大日本史」は後に名がついたもので始めは、「本朝の史記」という題だったそうです。それらからわかるように、君臣を中心に考えられた(伯夷伝では兄をかばう弟の清らかさ)尊皇思想が、水戸家の家訓として成熟し、斉昭(烈公)に引きつがれ、文武医を中心とした今日の総合大学のような弘道館ができました。
 その斉昭の子、慶喜(よしのぶ)にもその思想が受けつがれ、将軍になった徳川慶喜が熟慮の末、大政奉還をすることになるのは、水戸学本質を知れば、感慨深いものがあると言えます。
 慶喜は、国内外情勢をみて、大局に立って大政奉還−明治維新という変革を最小の流血で行ない、外国の侵略から日本を守り、将来を開いたのです。
 慶喜はこの弘道館で、11才まで学んでいます。
徳川光圀(水戸黄門)1628〜1700
 光圀は、寛永5年6月10日水戸藩初代藩主、徳川頼房の三男として生まれ、幼名長丸、千代松、光国(圀の字は56才から)となり、太田の西山荘で没後義公(ぎこう)と諡(おくりな)されました。
 光圀は、司馬遷の「伯夷伝(はくいでん)」を読み、はっとして「本朝の史記」(のちの大日本史)を作ろうと思い立ちました。光圀が30才の時、「彰往考来」(往事(おうじ)を明らかにして(将)来を考える)の中から2文字をとり彰考館という歴史編さん所を作りました。そして著名な学者を多数招き、歴史編さん事業に入ったのです。
 その志のため、多くの学者がその後参加しました。そして次々と形ある史書として編さんを重ね、かねて光圀が抱いていた皇国史観は死後も代々受け継がれ、250年の歳月をかけ397巻の「大日本史」が完成しました。それはなんと明治39年のことでした。
 光圀が亡くなった時、庶民はこう詠いました。「天(あま)が下(した)、二つの宝は朽(くち)はてぬ、佐渡の金山、水戸の黄門」。
弘道館わきの三ノ丸小学校校歌
第1章
我らが人の道わくる 学(マナビ)の庭は芳はしき名も世に高く聞こえたる 弘道館の梅林
第2章
七百年の冬ごもり よろずの草木に先だちて世に春風をいざないし 花の林はこのはやし
第3章
我らはここに学ぶ身ぞ 林の梅にかんがみて嵐をしのぎ雪にたえ 芳はしき名を世に立てむ

 第2章の始めの、「七百年の冬ごもり」は七百年にわたる武家政治を打破し、王政復古―明治維新という日本の歴史の春を誘導した力こそ、水戸藩の学問すなわち水戸学であると言っているのです。 
 義公(水戸光圀)が「伯夷伝(はくいでん)」に感動する事で始まった『大日本史』の編さんは、明治39年のなんと250年後に完成するのです。
 その水戸藩の修史事業は、近世の学問の発達に大変大きな影響を与えました。
 参考;「水戸学の達成と展開」(名越時正著) 錦正社刊
−弘道館−
 弘道館の創設の頃は、国内的には頽廃(たいはい)が蔓延していた頃で国外的には、ロシアの艦隊が常陸沖に表れたり、イギリスが太平洋に勢力をのばそうとしていた時でした。そんな時、常陸大津に上陸したイギリス捕鯨船の持っていた地図で、イギリスのインド攻略や南海諸島の制圧など、欧州諸国の情勢とその侵略手口を知るところとなったのです。
 そんな日本国を憂え、将来を考え、それには優秀な人材育成がなにより大事と考え、1841年(天保12年)水戸藩の学校として創られました。
 その方針は儒学者たちによる一方的な学問ではなく、文と武を調和させ、それを実践するものでした。内容は倫理、時務、歌学、天文、算学、地理、兵学、砲術、水術、医学などを教える総合大学のようなものでした。「外国の良き教えは取り、かたよることなく努力することが必要である。」としました。
 弘道館は、建学の精神やその理念の高さとともに内容や設備規模で他藩の注目するところとなり、天下に名を知られたのです。
−水戸学と尊攘思想−
 水戸藩九代藩主徳川斉昭(なりあき)、同藩士藤田幽谷(ゆうこく)とその子東湖、幽谷の門人、会沢正志斎(せいしさい)らによって唱えられた独自の学風を指し、天保期以降、識者の注目を集めるようになりました。
 水戸学の思想を最初に述べた幽谷は、君臣上下身分が正しく維持されてきたのは、古来天皇の地位が変わることがなかった我が国だけであるとし、尊王思想に理論的根拠を与えました。
 会澤正志斎は「新論」で天皇の先祖が忠孝の道徳をもって建国した我が国独自の政治体制と原理を詳論し、世界の大勢を的確に認識したうえで、西欧列強が侵略的野心を抱いて我が国に迫っている状況を述べ、守禦(しゅぎょ)ではこの侵略を未然に防止するため軍事上の対策、つまり「攘夷(じょうい)」の方策を示し、さらに、建国の根本精神に立ち戻ってこれを末長く維持するための一定不変の政治方針を考えようとしたのです。
 ここに攘夷論と尊王論が政治論として結合され、尊王攘夷思想として体系化されたのです。
−弘道館記に記されるもの(要約)−
  建学の趣意書であって、記文には、
.道を弘める者は人である。故に人は道を学び、これを弘める使命を持たねばならぬ。
.日本の道は神皇の道である。御歴代天皇も国民もこの道を守って一貫して来られた。そして歴史に盛衰はあっても断絶の無いのは非常の時に非常の人物が出て、この道を死守したからである。故に国民はこの恩に感謝し、恩に報いなければならない。
.この恩に報いるためには日本の道を奉ずるとともに、外国の良き教えは取り、忠孝二無く文武岐れず、学問の事業其の効を殊(こと)にせず、敬神崇儒、偏黨(へんとう)あるなく、衆思を集め群力を宣べなければならぬ。それには日夜怠らず努力することが必要である。
ということが書かれている。
 これが弘道館に学ぶ者の精神となって燃え上がり、水戸藩を振い起すならば、内外の困難に直面した日本を護りぬいて、道盛んな時代を作り出すことになろうというのが、日本一の学校を興そうとする水戸学派の考え方だった。
 参考;水戸藩弘道館とその教育「名越時正」著
−斉昭の書簡−
 斉昭が佐藤一斎に与えた書簡の趣旨を要約すると
 『これまで水戸藩には学校が無かったので、新しく建てようと新任以来工夫してきた。思うに世間では学問と政治が別なものと考え、また和学と漢学とが分離していて、古事記、日本書紀を一度も読んだことがない漢学者がいる反面、六経の一端を解し得ない和学者もある。その上文人は、刀槍などの武芸をいやしく思い、武人は読書を恥ずべきこととする風がある。また武人でも文人でもない、役人風というのもあるようだ。だから、学校では文武を合わせ和漢を兼ね、治教を一つにして、誰でも日本に生まれてきた以上は神道を尊び、武道を心がけ、聖賢の道を学んで、外国人と異なる日本的自覚、鳥獣と異なる人間的自覚を得させたいと思う。』というものである。
 また斉昭は、自著「告志篇」で士民に配って、新政の理想と人々の心構えを論じたりもしました。これが斉昭の、理想の学校(弘道館)構想の基礎であります。
 参考;水戸藩弘道館とその教育(名越時正)著
−偕楽園−
 金沢の兼六園や岡山の後楽園と並んで、天下の名園として名高い水戸の偕楽園は、弘道館とならび、その名を全国に広く知られています。その弘道館が、藩士らの文武修業の場所であるのに対して偕楽園は、「修業の余暇を利用して休養をとる場所」という位置づけになっています。つまり偕楽園は弘道館の付属補完的な性格をもっているのです。
 偕楽園の名称は、中国の古典である『孟子』の、「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故(ゆえ)に能(よ)く楽しむなり」 という一節からとったもので、『偕楽園記』では「是(こ)れ余(よ)(斉昭)が衆(しゅう)と楽みと同じくするの意なり」と述べられています。
 興味があることは「弘道館も偕楽園も設立前に、その設立の趣旨を記した碑文が先にでき上がっていたこと、そして、弘道館の場合は、建設時にはまだ正式に館の名称が決っていなかったのに対し、偕楽園の名称はすでに決定していた。」ということです。
−偕楽園(好文亭)と千波公園−
 梅の公園として全国にその名が知られる偕楽園は、金沢の兼六園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園のひとつです。
 水戸藩、第九代藩主・徳川斉昭が天保13年(1842年)に造園したもので、その名が示すように、藩主のみの庭園ではなくすべての民と楽しむ(偕楽)という意味から名づけられたといわれます。
 約13ヘクタールの園内には、3,000本、100品種に及ぶ梅林があり、春の訪れとともに、観梅の人々で賑わいます。また、初夏にはツツジ、秋にはハギの花が咲き誇り、シーズンを通して楽しめます。
 公園の西側、杉林と竹林を背にした好文亭は、藩主の休憩や、文人墨客招いて詩歌の会などに利用されたもので、質実な中にも風格が漂う建築です。3階の楽寿楼からは園内を見渡し、眼下に千波湖の眺望が広がります。
 時間がゆるせば千波公園の千波湖のほとりを歩いていただきたいと思います。春には桜が水面に揺れ、白鳥の群れが優雅に遊ぶ姿が見られるでしょう。また西側湖畔(こはん)に徳川光圀(黄門)像もみることができす。
−偕楽園と好文亭−
 日本三名園の一つの偕楽園は、天保年間に水戸9代藩主徳川斉昭(なりあき)によって開かれました。
 弘道館の文武に対し偕楽園はその余暇に「衆と楽しみをともにする」趣旨で開かれたもので、南西には斉昭の設計による好文亭が優雅に建っています。そこは梅のほかにもつつじ、はぎ、桜などもあり、豊かな花色を漂わせています。偕楽園は借景を利用した公園で、特に好文亭より千波湖方面の眺めがよいのですが、裏の竹林・崖下の吐玉泉(とぎょくせん)付近の趣きも、また一見の価値があります。
 また梅の種類が多いのは、当時軍事面の兵糧の意味があり、実践を重んじる水戸学の精神が生きているものと言われています。

【交通】水戸駅北口、バスCより偕楽園行で偕楽園下車徒歩2分、又はタクシーで約10分が便利。偕楽園は年中無休ですが、好文亭のみ年末休館。また近くの水戸芸術館まで車で約6分、弘道館までは車で約12分。
−偕楽園散策と好文亭−
 偕楽園の表門から入って進むと、竹林と杉林のやや薄暗い道をたどって、静寂を味わうことができます。そこをぬけ広場に出ると、こんどは一面に広がる梅林と眼下に広がる千波湖を望むことになります。園の設計は陰と陽、人々を幽玄の世界に引きこむように作られています。また手のこんだ造形のない自然のままの偕楽園は、散策する人々に、思策の場を与えているといった感じさえします。
 そんな雰囲気を楽しんだ後に、好文亭の三階にのぼってみれば、借景を利用した自然の大空間を見ることができるでしょう。
 しかしその好文亭の眺めの中、東の海岸の方、異国船渡来などの異変があった時に、烽火(かがりび)などで連絡することができる、という軍事的視点による役割もあったともいわれているのです。(弘道館は当時出没した外国船に脅威を抱いたり、国の改革を進めるため、人材を育てる必要を感じ設立された。)このことは、実践を重んじる水戸学ならではの考え方だといえます。
−好文亭−
 好文というのは梅の意味であって、中国の「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅の花が開かなかった」という故事にもとづいて名付けられています。
 亭の三階を楽寿楼といい、この名称も中国の古典「論語」からとったものですが、楽は水、寿は山を表わし、山と水の眺め双方を兼ねた楼という意味になります。そこには三室あり、南側に面した八畳が正室で、藩主が出かけられる時だけ使われたそうです。
 この三階よりの眺めは、前面に緑ケ岡の森を背景に白く光る千波湖の水面、東にははるか遠く大洗方面の松林を望むことができ、西にははるかに筑波山が眺められる場所でもあります。
 時間が許すなら、偕楽園の散策後、ぜひ好文亭に登ってその景色を楽しんでいただきたいと思います。借景を利用した自然のままの庭園をご覧いただけると思います。
 なお近くの水戸芸術館まで車で6分、弘道館までは車で12分位です。
−偕楽園の散策−
 偕楽園の表門(おもてもん)は西北端にある四脚門(よつあしもん)で、この表門から入園すると杉や竹の幽暗閑寂(かんじゃく)の林間を通ることになります。
 そのまま進んで広場に出ると、急に明るい好文亭と梅林を見ることになります。薄暗い世界から急に明るい世界、つまり陰から陽の世界へと導かれるのです。
 広場には多くの梅樹のほか、南側の崖の上には萩やつつじの木が植えられています。この南面の崖を南崖(なんがい)と呼んでいるのですが、この一帯は有名な明治の俳人正岡子規(まさおかしき)の「崖急に、梅ことごとく、斜(ななめ)なり」の句で知られています。またここは、偕楽園内で最初に梅の花が咲く所でもあり、その中腹には、水戸八景の一つである、「僊湖之暮雪(せんこのぼせつ)」の石碑があます。
 好文亭の西側にある「七曲(ななまが)り」という坂を降りると、やや広い平坦な所があり、そこに「吐玉泉(とぎょくせん)」と呼ばれる大理石の井筒(いづつ)があり、清水がこんこんと湧き出ています。
―水戸芸術館―
 市制100周年の記念として建てられた複合文化施設で、高さ100mの塔、広場、各施設など館内外の造形は世界でも類のないものになっています。
 施設は、コンサートホールATM、ACM劇場、現代美術ギャラリーなどがあり、自主企画による水戸芸術館ならではの催事が行われています。またエントランスホールには、国産最大級のパイプオルガンがあり、毎週土・日にはプロムナードコンサートが開催されています。
 年末年始には、ライトアップを行なっているので、一度はそれも体験していただきたいものです。

【休館日】(毎月曜日・年末年始)
【塔入場時間】(9:30〜19:00)
 大人200円、小人100円。
【問合せ先】TEL029-227-8111(代)
【交 通】駐車場有250台、また近くの弘道館まで車で約6分、偕楽園公園には車で約6分(見学約1時間)
−歴史ロードより薬医門へ−
 水戸には歴史ロードと名づけられた所があります。水戸駅北口より西に向かい、銀杏坂より右折して弘道館から薬医門へ向う道です。
 ゆっくりと急な坂を登っていくと、始めに見えてくるのは白壁に囲まれた三ノ丸小学校です。旧弘道館の敷地内に建られた小学校であることから、門も冠木門(かぶきもん)になっています。
 右折して道なりに進むと弘道館へ出ます。さらに右折し大手橋を渡ると旧二ノ丸で、たいへん新緑のきれいな所です。やがて水戸第二中学校に出ますが、その正面右手に「大日本史編纂之地」の碑があり、そこが彰考館の水館があったところです。そのとなりの安積澹泊(いわゆる格さん)像をすぎて本丸の方、緑の中の石だたみを歩いて行くと本城橋に至り、そこを渡ると大きな薬医門が建っています。
 薬医門は旧水戸城の現存するただ一つの建造物でありますが、正面から見ると、のきが深いため、ゆったりとして威厳を感じることができます。城門の風格からみて、本丸の表門だったと考えられています。



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