水戸の発祥と形成(支配者の変遷) | ||
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中世時代の頃の水戸 ○大掾氏(だいじょう) 中世常陸国の豪族で、平国香 (くにか)が常陸大掾に命じら れ、子孫がこれを世襲し職名が家 名となった。平安後期には吉田、 真壁、小栗ら支族を分出し、常陸 国の南半を中心に勢力を張る。鎌 倉前期、多気義幹(たけよしも と)が失脚し、大掾本家は馬場氏 が相続。南北朝以降も府中(現、 石岡市)を中心に勢力を維持した が、天正一八年(1590年)佐竹氏 に滅ぼされた。 ○江戸氏 中世武蔵の国の豪族で、通泰の とき足利高氏に属して江戸郷(現 =茨城県那珂町)を与えられ、そ の子、通高から江戸氏を称した。 孫の通房は上杉禅秀の乱後、水戸 に進出、水戸江戸氏の基礎を築い た。天正一八年(1590年)重通は 佐竹義宣に水戸を追われ、子の宣 通は徳川家康に仕えた。のちに福 井藩士となり、水戸氏と改姓。 ○佐竹義宣(さたけよしのぶ) 1570 〜 1633.10.25 (元亀元年)(寛永一〇年) 天正一八年(1590年)、秀吉の 小田原攻めに参陣し、以後豊臣権 力を背景に常陸一国の平定に成功 し、文禄三年(1594年)下野常陸 両国で54万5千石を領する。 関ケ原の戦の後、慶長七年(1602 年)常陸国を没収され、出羽国秋 田20万5千石に減封された。以後 秋田藩政の基礎確立に尽力。 ○徳川頼房(とくがわよりふさ) 1603.8.10 〜 1661.7.29 (慶長八年)(寛文元年) 御三家の一つ水戸徳川家の祖、 家康の11男。慶長一〇年(1605) 年三才で常陸国下妻10万石に封じ られ、慶長一四年(1609年)に水 戸25万藩主となる。元和八年(16 22年)3万石を加増させ、28万石 を領した。 水戸城下町の建設、領内総検地の 実施、鉱山開発など藩政の整備に 努めた。徳川光圀は頼房の三男。 |
常陸国は、平安時代の平将門のころから平氏一門の武士が勢力をもっていた が、そののち藤原氏・源氏の系統の武士も土着し、各地の荘園を拠点として開発 をすすめ、一方で平氏と対立抗争をくり返していた。 源頼朝が鎌倉幕府を開くころには、すでに佐竹氏は常陸の有力武士をして名が あらわれているが、このころ吉田郷を支配していた吉田盛幹の子、石川家幹の次 男にあたる資幹(すけもと)は、鎌倉の御家人となって水戸の台地の先端に館を 構え、馬場小次郎資幹と名のった。ここに初めて、水戸の地がこのあたりを支配 する政治的な中心地としての役割をもつことになる。 資幹は、まもなく常陸国の大掾(だいじょう)の職に任じられ、大掾氏と名 のって一族の惣領となり、府中(石岡市)に本拠を移した。吉田氏系の大掾氏が 200年以上にわたって、常陸の中央部を支配する基礎をつくった。 鎌倉幕府が倒れ、南北朝時代に入ると、諸国の武士たちは南朝方・北朝方に分 かれて抗争に明けくれることになった。室町時代の戦乱のあいだに、有力武士は 入りみだれて戦っていたが、大掾氏に対立する勢力として、江戸氏や佐竹氏がし だいに抬頭してきた。このあと大掾氏は、室町幕府内部の権力争いにも巻きこま れ、ついに水戸城を棄てて府中にしりぞき、勢力が衰えた。 大掾氏を圧倒して水戸城を占拠したのは江戸氏である。江戸氏の水戸城の中心 は、いまの三の丸三丁目から二丁目あたりになり、商人や職人を集めて住まわせ た。これが水戸城下町の芽生えである。この江戸氏の時代、江戸氏の館がある台 地の先端部を、水戸という地名で呼ぶようになったらしい。 次に水戸城の主となったのは、佐竹氏である。戦国の動乱を経て、織田信長・ 豊臣秀吉によって天下統一の動向がはっきりすると、佐竹義宣は小田原城を攻撃 中の秀吉の陣へ出頭した。ここで常陸の領有を秀吉から公認された義宣は、水戸 城を攻略して江戸氏を国外へ追い、さらに府中の大掾氏をも亡ぼし、水戸城に 入って、21万石余の領国を支配することになった。ここに水戸の地は、初めて常 陸の首都として、歴史の中にその位置を占めたのである。 やがて、戦国時代が終ると義宣は水戸城を一国に君臨する大名の居城にふさわ しく拡充し、城下町を建設する大事業に取りくんだ。本格的な近世的城郭として の水戸城が、このときに出現する。中世の水戸城が、領主の館を中心とした簡素 な防御施設にすぎなかったものを、重層的な構造に一変させ、幾重にも堀をめぐ らし、土塁を築きあげて防備を厳重にした。 外郭(そとぐるわ)外側にできた白銀町・大町・中町・西町などには諸国から 商人が集まって店を開き、城下町はおおいに賑わった。ここに水戸は名実とも に、常陸の政治上・経済上の中心地としての地位を固めたのである。 その後関ケ原の戦いに勝って天下の実権をにぎった徳川家康によって、佐竹氏 は秋田への転封を命じられ、水戸を去ることになる。現在、旧本丸(県立水戸第 一高校)に移築されている古い城門は、佐竹氏の時代に建てられた橋詰門といわ れ、佐竹時代の水戸城をしのぶ唯一の遺構である(県文化財)。 佐竹氏が秋田へ去ったあと、水戸城へは徳川一門が入城した。 家康の11子にあたる頼房が、25万石の領主として水戸城を与えられ、35万石水 戸藩の基礎が定まった。 徳川一門の城となった水戸城は、御殿や城郭の整備がすすめられたが、天守閣 はつくられず、それに相当する建物は、三階建ての物見櫓(やぐら)だった(こ の櫓は、昭和20年の戦災で焼失)。 そのころ本町通には、江戸(水戸)街道・岩城相馬街道が通っていて宿場町の 機能をもっており、繁華街として賑わっていた。 こうして、水戸市の原型である城下町水戸は、江戸時代の初めにほぼその原型 が完成する。その後、人口の増減や武家屋敷地の移動など、多少の変動はあった にしても、城下町としての基本的な構造は、この時に定まった。 |