後期水戸学の形成と展開

水戸市立第二中学校の門の右側に「大日本史編纂之地」の碑が
建っている。つまり、ここに彰考館があったということである。

長久保赤水(ながくぼせきすい)
(1717〜1801)「大日本史」地理志
の編修




立原翠軒(たちはらすいけん)
(1744〜1823)「大日本史」紀伝の
校訂に尽力し、門人の育成にあた
る。弟子の幽谷と対立するが、そ
のことが水戸藩党争の遠因といわ
れる。

小宮山楓軒(こみやまふうけん)
(1764〜1840)斉昭の藩主就任
後、立原派のなかで唯一斉昭の信
任をえて町奉行、側用人となる。

木村謙次(きむらけんじ)
(1752〜1811)国後(くなしり)
択捉(えとろふ)を探検し、「酔
古日札」「北行日録」を著す。

藤田幽谷(ふじたゆうこく)
(1774〜1826)後期水戸学の創始
者。「正名論」を著す。


















列強の日本接近(異国船の来航)









会沢正志斎(あいざわせいしさ
い)
(1782〜1863) 尊皇攘夷思想の
体系的提唱者であり、著書「新論」
は当時の志士のバイブルとなっ
た。また、その40年後、慶喜が十
四代将軍家茂(いえもち)の後見
職となった時「事務策(じむさ
く)」を著し献上する。それは慶
喜に相当なる影響をあたえる。


















藤田東湖(ふじたとうこ)
(1806〜1855)幽谷の次男で「弘
道館記述義」は水戸学の代表作と
いえる。また「回天詩史」「和文天
祥正気(せいき)の歌」は幕末の
志士に愛読された。

徳川斉昭(とくがわなりあき)
(1800〜1860) 弘道館、郷校の
設置の他、ペリー来航後幕府海防
参与となり大船建造や軍制改革に
参画する。安政の大獄に連坐し、
国もと永蟄居となる。




















弘道館の創設と検地の実行
 
弘道館仮開館(1841)
 弘道館本開館(1857)










水戸の両田




水野忠邦(みずのただくに)
(1794〜1851)
天保の改革を主導。鳥居耀蔵を町
奉行に登用し、強圧的な政治を行
う。失脚後江戸屋敷に投石を受け
る。




幕府の改革と甲辰の国難
   長久保赤水は若いころ、水戸の史臣名越南渓(なんけい)に儒
学を学び、また多くの学者と交わるようになっていた。
藩の命令で、漂流者を引取りに長崎に旅行して見聞を広めたが、
このころから地理を学んで、緯度を記入した精密な日本地図『新
刻日本輿地路程全図』を作り、安永七年(1778年)に出版し日本
の地理学の画期的な発展のもととなった。

 
立原翠軒は長久保赤水と親しかった史館勤の蘭渓の子で、書道
にすぐれていた。一時排斥されて不遇の時があったが、天明六年
(1786年)史館総裁に任命されると長年沈滞した修史事業の復興
に努力した。

 また門人木村謙次、武石民蔵(たみぞう)を蝦夷地探検に行か
せるなど、藩主を助けて水戸藩の名声を取り戻すことに貢献し
た。また、此君堂(しくんどう)という私塾を竹隈町に開き、多
くの人材を育成した。また、その門人の
小宮山楓軒は、藩史や農
政史などに数多くの著書を残した。

 また、前述した
木村謙次は生来の豪傑でロシアの北方侵入を激
しく憤り、二回蝦夷地探検したが、寛政十年(1798年)には幕府
の近藤重蔵を案内してエトロフ島に渡り「大日本恵登呂府(えと
ろふ)」の木標を立てて帰った攘夷論の先駆者である。

 立原翠軒の門人の中で最も大きな役割を果たした人物が
藤田幽
(一正)である。幼少時から抜群の英才を認められ翠軒の門人
となったが、天明八年(1788年)の15才の時に師の推薦で史館小
僧となったのが振り出しで藩士に取り立てられ、やがて編修を経
て史館総裁となる。
 幽谷は修史復興のため、第一に、長い間忘れられていた光圀の
精神を探究し、その継承に強い決意をいだく。その眼目は光圀の
歴史観と、一生を貫いた尊王の思想である。寛政三年(1791年)
18才の時「正名論」を著す。その要点は、幕府にとって最も大事
なことは君臣の大義によって名分を正すこと。つまり日本には建
国以来の主権者である一系の天皇が居られるのだから、将軍自身
天皇を尊べば、諸大名も将軍に従い、世の秩序は整うであろう。
将軍が王と称することは名分を乱すことだから改めるべきだ。こ
のことは光圀の根本精神であったにもかかわらず、藩は幕府に遠
慮してこの書を呈しなかった。しかし幽谷の精神は親しい友人や
若い人から強く支持され、いわゆる後期水戸学は幽谷に導かれて
発展するのである。
 また幽谷は、農民救済のための改革論「勧農或問(かんのうわ
くもん)」を著わした。また、私塾青藍舎(せいらんしゃ)を開
き門人を教えたり、修史上の意見が認められ江戸に出て活躍し
た。

 また、このころロシアのラクスマンが根室に来航して貿易を要
求した。
(1792年→ペリー来航の61年前)また、1796年に英国人
ブロートンが室蘭に来航。日本沿岸を測量、翌年にはロシア人が
択捉島に上陸している。
 その後、長崎にロシアのレザノフが来航したが貿易を拒否され
た報復として、蝦夷地に軍隊を派遣して暴行する事件が起こる。
(1805年→ペリー来航の48年前)1806年、ロシアはこのほかに樺
太の松前藩会所を襲撃したり、利尻島に侵入して幕府の船を焼い
たりしている。

 文政七年(1824年)大津浜事件が起きる。これは異国船の乗組
員がかってに上陸した事件で、水戸藩は出兵して非常事態に備え
た。また一方幽谷の門人、
会沢正志斎、飛田逸民(とびたいつみ
ん)を派遣して事情を調べさせた。会沢たちは地図や手まねに
よって、かれらが英国人であることを知り、またその世界征服の
野心を察して藩に報告した。これを聞いた幽谷は一人息子東湖を
現地に派遣して英国人を斬り殺すように命じたが、幕府の役人が
派遣されると彼らに敵意は無いと見て、薪、水、食料を与えて釈
放してしまった。幽谷たちは幕府や藩のことなかれ的軟弱外交を
憤り、これからは尊王攘夷の実践によって国を守らなければなら
ないと決意するのである。
 幽谷の青藍舎(せいらんしゃ)の私塾には、会沢正志斎、飛田
逸民をはじめ岡崎正忠、国友善庵、豊田天功、吉成南園、杉山復
堂、吉田令世(のりよ)、川瀬教徳などの人物が育っていた。ま
た幽谷の子、藤田東湖(ふじたとうこ)は英傑の素質を持って文
武に励んでいた。彼らは家柄は低かったが、師の教えを守って困
難の打開に当たろうという意気込みに燃えていた。

 中でも高弟会沢正志斎は10才の時幽谷に入門し、史館に進んで
修史の業にあづかるとともに、西洋列強のアジア侵略を憂えてそ
の実情を研究した。常陸大津浜で英国人を取り調べてから、その
翌年に
「新論」を著す。内容は、世界の新情勢による非常事態に
対応する改革を論じたものであった。この書が完成すると幽谷の
手を経て斉脩(なりのぶ→水戸八代藩主)に呈せられたが、徳川
斉脩は幕府の嫌疑を恐れ公表を禁じてしまった。しかし国を憂え
る同志たちはひそかにこれを写して勉強し、やがては藩外の志士
たちにも拡がった。それは尊王攘夷論の教本とされて明治維新達
成の原動力となるのである。

 幽谷は「新論」ができて間もない文政九年(1826年)の暮、改
革が達成されないことを歎きながら急病のため53才の生涯をとじ
る。その後を嗣いだ
東湖(21才)は史館編修に任命された。文政
十二年(1829年)斉脩は死亡。

 斉脩の実弟の敬三郎が
徳川斉昭(諡 烈公)であるが、その時
水戸藩内に陰謀があり、それを東湖らの必死の働きできりぬけ水
戸第九代藩主となる。
 東湖は幼時から幽谷の門人会沢正志斎や吉田令世の教育を受け
ていた。しかし幽谷の思想の本質を真に学んでいたのは、その子
であった東湖であった。
 東湖たちは、この斉昭の登場こそ大改革を断行する好機とし
て、直ちに意見を呈すると、斉昭はすかさず英断をもって、腐敗
した重臣らの榊原一派を退け人事を一新した。東湖をはじめ会
沢、吉成、川瀬など身分の低い者も郡奉行の重職に任じられ、農
政改革に着手することになった。斉昭は賄賂やぜいたくを厳禁し
て財政を引きしめ、文武を奨励して士風を正し、天保四年(1833
年)自ら著わした「告志篇」を頒布して朝廷を尊び幕府を敬い、
主従一体となって職務に励むことを要望した。また新政策として
学校の創設、海防施設の充実、武士の土着のほか、神武天皇の神
社建設や蝦夷地開拓などの計画を発表し準備を命じた。
 これらの政策は光圀の志を継ごうとしたものだが、太平に慣
れ、経済的利益のみを考えていた保守的家臣にとっては真意が分
からず、新政に協力したのは結局幽谷門人の外は少なかった。こ
とに天保年間は凶作が続き、
財政が苦しかったので改革を妨げる
勢力も意外に強く門閥(もんばつ)派は、東湖たちを成り上がり
者と軽蔑した。

 それでも斉昭は初志を変えず、蘭学者を招いて世界情勢や洋学
を研究させ、天保七年(1836年)には山野辺義観を海防総司に任
命し、助川城を築いて家臣とともに移住させたほか、江戸詰の定
員を減じ、水戸に新屋敷を造って移住させた。

 斉昭の事業のうち最も重要でかつ困難だったのは、
学校の創設
と領内の検地だった。彼は天保八年「文武一致」「敬神崇儒」な
どの方針を東湖に示して、学校の趣意書を作らせた。東湖はただ
水戸藩だけの教学にとどまらず、日本全国の基準となる理想を確
立しようと起草した。これが「弘道館記」である。
 
第二の大事業は検地であるが、幽谷がその必要を力説したが、
重臣や富農の反対を恐れて実施できなかった。
 斉昭も慎重を期したが、川瀬教徳ら幽谷門人の強い支持があっ
たので、学校建設と併行して二年余りかけて厳正に行なわれた。
この趣旨は豪農の隠し田を取り上げ、貧農に農地を確保させて貧
富の差を少なくし、勤労意欲を高めようとするもので、藩の収入
を高めるためではなかった。ことに一坪を六尺平方から六尺五寸
平方に改めたので
石高は十万石も減少したのである。
 このように改革は強力に進められたが、反対するものもあり障
害であったが、ともかく改革の目的を達成したのは戸田忠敞(と
だただあきら)と藤田東湖の輔佐による所が大きかったといえ
る。この二人は水戸の両田と呼ばれた。

 一方、幕府では
水野忠邦(みずのただくに)の改革が進められ
ていた。斉昭はしばしば書を贈って激励したが、水野はかえって
斉昭を敬遠するようになる。斉昭が朝廷や有為の大名から大きな
期待をかけられるのを嫉(ねた)んだのである。
 天保十一年に斉昭が帰国すると、翌年には引き続き5〜6年の
水戸滞在を命じられる。この時彼は、特に海岸の防備に心を尽く
したり、寺院の梵鐘を集めて鋳つぶし大砲製造の銅の不足を補っ
たりした。また、水戸東照宮の僧侶を追放して神官に祀らせた
り、蝦夷地開拓の計画を立て幕府に検地を要求したりした。

 老中水野はやがて職を免ぜられたが、幕府は斉昭を疑い、
水戸
藩内でもその改革に反対する門閥(もんばつ)派と、その政策に
反感を持つ僧侶が次第に結びついていくことになる。
そして弘化
元年(1844年)幕府は突然斉昭を江戸に呼びだし、七ケ条の嫌疑
を示して隠居謹慎を命じた。また、斉昭の改革を輔けた戸田忠
敞、藤田東湖、今井金右衛門には免職蟄居の重い処分を言い渡
し、禄や屋敷も召し上げてしまう。この事件を、水戸では甲辰
(こうしん)の国難と呼んでいる。
 甲辰国難の原因についてはさまざまの推察があるが、幕府には
現状否定的改革を嫌悪する体質があったところへ、藩内の改革反
対派が火を付けた、ということは否定できないであろう。

     −−−(別添の江戸後期年表参照)−−−

参考文献(水戸史学会編「水戸の道しるべ」)

 
ペリーの来航




世界は動いていた






国家意識の目覚め







欧米の君主たち







     ま と め
   この後、1853年にペリーが浦賀に来航、翌1月に再来航する。
これにより日米和親条約を結ぶ事になるが、この後日本は開国・
維新へと、急激に走り出すのである。
 ここで当時の世界情勢を復習すると、

  クリミア戦争(1853〜56)
  イタリア王国の統一(1861)
  南北戦争(1861〜65)
  スエズ運河の開通(1869)
  ドイツ皇帝の戴冠(1871)
  パリ・コミューン(1871)などが起こっている。

 つまりこの頃起こりつつあったうねりは、巨大で世界的なもの
であった。慶喜ばかりでなく西欧の王や皇帝たちもまた、自らの
権威を守りながら、民族意識の高まりと資本主義の進展にあわせ
た国家改革を推進していたのである。
 そして欧米各国の君主たちは、結局激しい二十世紀の荒波にも
まれながら、遅かれ早かれその近代化の波に、引導を渡されるこ
ととなる。

  ドイツ皇帝ビィルヘルム一世(1797〜1888)
  フランス第二帝政皇帝ナポレオン三世(1808〜1873)
  ロシア皇帝アレキサンドル二世(1818〜1881)
  イギリス国王ビクトリア女王(1819〜1901)
  イタリア国王ビィットリオ・エマヌエル二世(1820〜1878)
  オーストリア皇帝フランツヨーゼル一世(1830〜1916)
  アメリカ合衆国エイブラハム・リンカーン(1809〜1865)

 華やかかりし王と皇帝の時代は、過ぎ去っていったのである。
西欧列強といえども近代国家としての基盤は盤石ではなく、幕末
期に日本がかかえていた国家統一という同じ命題を抱え込んでい
た。そうした欧米の動揺する政治情勢の狭間で、日本が開国・維
新という最大の危機を乗りきれたことは、−−−結果として幸運
であったのであろう。

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